9/29 二上山 美しき山容にみていたもの
- MONDO1 GOOD
- 2024年10月3日
- 読了時間: 7分
今年の夏は本当に長く、暑かったです。地球温暖化をリアルに感じます。
9/27日 自民党の総裁選が行われていました。初の女性首相の誕生なるかということで、一部ではかなり注目されていたようです。決戦投票では高市氏と石破氏が争い、最初の投票でTOPだった高市氏を逆転して石破氏が当選となりました。私たちには分からない、なんらかの裏の駆け引き- 政治的闘争があったのでしょうか?麻生さん怒ってましたね。
今回 二上山に登りました。初参加の方4名を含む、6名で登りました。
二上山は、雄岳と雌岳の2つのピークがあり、遠くから見てもすぐにそれと分かる特徴的な山容をしています。大阪から奈良の大峰方面へ行くときに、帰路に高速から見えるとようやく大阪近くまで戻ってきたなと想起させる山で、個人的に身近に感じる山の一つです。
奈良盆地の西側にあるので、夕日が沈む時期にとても美しい山です。
麓に祀られていた「裁縫」の神様
今回は、近鉄 二上神社口駅に集合し、登り始めました。
登り始める前に、麓に神社がありました。
神社の境内に説明があり「葛木倭文座天羽雷命神社」という名前です。普通は読めないです。各地に機織や裁縫の技術を伝えた倭文氏の祖神ということらしいです。
(裁縫のプロの神様とのことです。)
境内に、二宮金次郎の象がありました。
大津皇子の墳墓
登りのコースは、非常によく整備されていて、歩きやすかったです。
山頂の標高は、標高517mで、コースタイムは2時間以内です。
山頂まであとわずかというところに、宮内庁が管理するお墓がありました。
皇族の方のお墓かなと思い、見てみると天武天皇の皇子 大津皇子という方のお墓です。
天武天皇は、何となく聞いたことがある人も多いのではないでしょうか?
その皇子がなぜこの山の上に祀られているのか? 山の麓に墳墓があることはよくありますが、お墓参りの事も考えるとなぜ山の上にお墓があるのか? 率直な疑問が浮かびます。
自宅に帰りググってみると、大津皇子について、すごくうまくまとめられたBlogがありました。大津皇子の逸話がとても魅力的です。以下「和楽」さんのHP(出典)より引用.
タイトル「モテすぎて狂った運命。24歳で処刑された悲劇のイケメン、大津皇子の恋」
とにかく、すごい才能で魅力的、女性にモテた方のようです。
昔の史書に、 大津皇子の人柄について 以下のような記載があるそうです。
「体はがっしりと大きくて、器の大きい頼りになる性格。小さい頃から勉強が好きで、本をたくさん読み、文章を書くのも上手。成長するにつれ武道の才能も開花し、強い力で自在に剣を操る。自由奔放で、細かいルールに縛られず、しかも誰に対しても威張ることなく礼儀正しい。そんな素晴らしい人だから、みんな大津皇子を信頼し、大好きになってしまう」「以上 : 日本語訳 出典:和楽さん」
女性との歌のやりとりも興味深いです。
山で密会を重ねていた男女の歌です。現代語訳 和楽さんHP(出典)
【山から落ちてくるしずくに濡れながらあなたを待っている。立ち続けている私も濡れてしまった、山のしずくに。】(大津皇子)
これに対する、相手女性の返歌
【私を待っているあなたが濡れてしまったというその山のしずくに、私もなってしまえたらよかったのに】(石川郎女)
当時天武天皇が絶大な権勢を誇っていました。そこで大津皇子も頭角を現し要職に取りたてられ、表舞台にでてくるようになります。そんな時に、天武天皇が崩御しました。
この時、大津皇子は、同じく天武天皇の子供である異母兄弟の草壁皇子との間の政治的闘争に巻き込まれます。密告により大津皇子は草壁皇子に対して謀反を企てたかどで弱冠24歳で処刑されます。 歴史には悲劇的な側面があります。皇位継承で争っていた草壁皇子もその後、天皇になることなく27歳の若さで亡くなりました。天武天皇の2人の皇子による皇位継承の問題でこのような事実があったのを初めて知りました。
雄岳山頂へ
雄岳山頂は、平らなスペースがありました。
あまり人は多くいませんでした。
三角点を探していると、山頂の隅の方に どなたかが作った日付のオブジェがありました。
登頂した日付とぴったりです。
雌岳山頂へ
続いて、もう一峰の雌岳へ。
雌岳の山頂は、綺麗に整備され、たくさんの人が昼食をとったりくつろいでいました。
雌岳(474m)の山頂の標識で 記念撮影。
石窟寺院跡 - 史跡 岩屋
下山途中に、岩屋という史跡があるので、立ち寄りました。
この史跡、西暦700年かそれ以前? かなり古いようです。史料にも詳しい年代について記録が残っていないようですが、全国的にも非常に珍しい石窟寺院とのことです。
参考サイト:
麓の古墳 「鳥谷口古墳」
麓には 古墳もありました。
當麻寺
駅までの途中に、當麻寺(たいまでら)に寄りました。
境内に何気なく置いてあった鐘ですが。説明をみると、日本最古みたいです。
境内にあった、伐採された大木の根。
たぶんかなり古いものだと思われますが。
金剛力士像の一体が、修復中でした。
一人で門を守る、金剛力士像。(阿形の方)
當麻寺の門前町 「當麻 天神講」
當麻寺の門前の通りが、すごく趣のある自宅が多かったです。
少し変わった「しめ縄」が飾ってありました。どの自宅の物も同じ装飾だったので、あるお宅の方に聞いてみました。すると、天神さん信仰の「當麻天神講」のメンバーの自宅に同じ「しめ縄」を飾る習俗があるそうです。しめ縄の上にある3本は雷を表し、下の3本は雨を表しているそうです。少しお話を聞くつもりが、講に対してかなり思い入れがあるようで、近年はメンバーの人数が少なくなってきていることが寂しいとおっしゃっていました。江戸の元禄時代から400年間にわたり継承されてきている講(信者の地縁グループ)のようです。
「當麻 天神講」 引用:葛城市HP
最後に
奈良地域は、歴史がとてつもなく古いです。驚きます。
聖徳太子の時代 - 和をもって尊しとなす。そんな時代の史跡があちこちにあります。
二上山は、奈良の南部 葛城市にある山で、奈良盆地を取り囲む山です。
「奈良盆地東部の神体山・三輪山(桜井市)と相対する位置」にあって、「大和国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられた特別な山」(Wikipedia引用)と考えられていたようです。
話を大津皇子に戻しますが、
草壁皇子への謀反のかどで、処刑された後、数か月経って二上山へ移され埋葬されたそうです。それにしても、だれがどういう意図をもって、二上山へ埋葬したんでしょうか?
和楽さんBlogの締めくくりの言葉が、その答えを示唆している気がします。
「すべての謎と悲しみを包み込んで、大津皇子が眠る二上山は今、かつて都があった奈良盆地を静かに見下ろしています。」:和楽さんHP(出典)
そして、最後に、大津皇子を溺愛していたお姉さん(大伯皇女)の歌を紹介しておきます。
うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟(いろせ)と我が見む -(大伯皇女)
現代語訳:【この世の人である私は、明日から、二上山を弟だと思って眺めることでしょう】
:和楽さんHP(出典)。
平城京に遷都される前に、奈良盆地の南部に都があったころ、当時の人気者だった若者が処刑され埋葬された場所でもある二上山。当時の人にとって 他の山とは違い格別の想いをもって見られていた山でした。美しい夕陽に輝く山を見て 故人を偲ぶ。そんな対象としての側面があったことを考えると、山の印象ががらっと変わります。今度、大峰からの帰路に改めてじっくりと二上山を見てみたいと思いました。二上山には大津皇子が眠っている。一度知ると忘れられない山になります。。
6名全員無事完歩。
今回参加いただいた皆様 ありがとうございました。
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